「今期は利益が出たから、社員に還元しよう」
「あいつは頑張っているから、月給を3万円上げてやろう」
経営者にとって、社員の給料を上げる決断は、誇らしくもあり、嬉しい瞬間だと思います。
「これで喜んでくれるはずだ」
「もっと頑張ってくれるはずだ」
と期待して辞令を渡します。
しかし、その数ヶ月後。
あんなに喜んでいたはずの社員から、退職届を出される――。
「なぜだ? 給料を上げたばかりじゃないか!」
この昇給のパラドックスに頭を抱える経営者様は、実は少なくありません。
なぜ、お金をあげたのに心が離れてしまうのでしょうか?
多くの経営者が陥りがちな「給与=モチベーション」という誤解と、社員が本当に求めている納得感の正体について解説します。
まず、残酷な現実をお伝えしなければなりません。
心理学者フレデリック・ハーズバーグの有名な理論によれば、給与や労働条件は衛生要因に分類されます。
これはどういうことかと言うと、給料が低いと不満(マイナス)になるが、給料が高くても満足(プラス)が続くわけではない。ということです。
給料を上げることは、あくまで不満の解消に過ぎません。
マイナスをゼロに戻すだけであって、そこから「もっとこの会社で頑張りたい!」という意欲を高める力は、実は給与そのものにはほとんどないのです。
むしろ、中途半端な昇給は、「これだけ働かされたんだから、これくらい貰って当然だ」という受け止め方をされ、逆効果になることすらあります。
社長の鉛筆なめなめ(独断)で決まった昇給の最大の問題点は、再現性がないことです。
例えば、理由も告げられずに「今月から3万円アップだ」と言われた社員の心境を想像してみてください。
最初の瞬間は「やった!」と思います。
しかし、家に帰って冷静になると、次のような思考が巡ります。
「なぜ3万円なんだろう? 5万円じゃない理由は?」
「社長の機嫌が良かったからかな?」
「来年、業績が悪かったら、同じように理由なく下げられるのかな?」
「私より仕事をしていないあの人は、いくら上がったんだろう?」
ルールなき報酬は、感謝ではなく疑念を生みます。
自分がどのようなロジックで評価され、値付けされたのかが分からない状態は、社員にとって非常にストレスフルな状態なのです。
この不安が解消されない限り、社員は常にもっと条件が明確な会社を探し続けます。
では、どうすれば給与を定着の武器に変えられるのか。
答えはシンプルです。
金額の根拠を明確に示すことです。
ここで必要になるのが、(【定着】「社長の鉛筆なめなめ」が社員を辞めさせる。中小企業に「立派な評価シート」が要らない理由)で解説した評価制度と連動した賃金テーブル(給与規定)です。
中小企業において、大企業のような複雑な等級制度は不要ですが、最低限以下の接続ルールが必要です。
評価連動型昇給:「評価Aなら5,000円UP」「評価Bなら据え置き」といった明確な連動。
役割給・能力給:「リーダー役職に就けば手当+2万円」「この資格を取れば+5,000円」という対価の明示。
これにより、給与表は単なる数字の羅列ではなく、この会社でどう成長すれば、いくら貰えるのか を示す、キャリアの地図に変わります。
「今は給料が安くても、このスキルを身につければこれだけ上がる」
この見通し(将来への期待感)こそが、社員をその場に留めるアンカーとなるのです。
最後に、最も重要な運用のポイントをお伝えします。
昇給額が決まった後、給与辞令や通知書を、まさかデスクの上にポンと置いたり、メールで済ませたりしていませんか?
それは、ラブレターを郵送で送りつけるようなものです。
給与改定のタイミングこそ、社長や上司が社員に愛と期待を伝える最大のチャンスです。
必ず面談の場を設け、こう伝えてください。
「今回の昇給額は〇〇円だ。 これは、君の昨期の『〇〇プロジェクトでのリーダーシップ』を評価した結果だ(過去の承認)。会社としては、君に将来こういう役割を担ってほしいと思っている(未来への期待)。そのための投資としての昇給だ。期待しているよ」
このように、金額だけでなく、理由と期待をセットで手渡すこと。
このストーリーが添えられた時、初めてそのお金は単なる生活費から、会社からの信頼の証へと意味を変えます。
社員はお金のためだけに働いているのではありません。
しかし、お金は会社からの評価を最もシビアに表す指標でもあります。
だからこそ、経営者はその決定プロセスをガラス張りにし、堂々と説明責任を果たさなければなりません。
「あいつは金で動くやつだ」と嘆く前に、そのお金に納得感という付加価値を乗せて渡せているか。
制度設計と伝え方の工夫一つで、1万円の昇給が、100万円の研修以上の効果を生むこともあるのです。